第6章 【選択肢教育】という考え
私は教育の専門家ではありませんし、教師でもありません。
ましてや、教育学を学んだわけでもありません。
だから、教育について偉そうに語るつもりは一切ありません。
ただ父親として、そして15年以上フィリピンで生活してきた一人の人間として、最近よく考えることがあります。
それは、子どもに何を教えるべき(伝えるべき)なのか、ということです。
昔の私が大切だと思っていたことは、
良い学校、 良い成績、 良い進学先、 そしてよい進路。
もちろん 今でも大切な要素だとは思っています。
しかし、それだけでは足りないような気がしています。
なぜなら、世界の変化があまりにも速いからです。
急激なテクノロジーの発展は今後も止まらないでしょう。
私が若い頃には存在しなかった仕事が、今では当たり前になっています。
逆に、当たり前だった仕事がなくなっています。
インターネットが普及し、スマートフォンが生まれ、AIが登場しました。
10年後、20年後の世界を、正確に予想できる人は誰もいません。
AIと量子コンピューターの融合によるテクノロジー革命は、過去100年で起こったことを10年で実践するといわれています。
なんて素晴らしいことでしょう!
ただ、そんな時代だからこそ、親として何を残せるのだろう。
私はよく考えます。
テクノロジーに置き換えられない人間の強みと尊厳を兼ねた何かです。
その答えとして、今のところ一番しっくり来ているのが、「選択肢教育」という考え方です。
子どもの未来を決めない。
子どもの職業を決めない。
子どもの人生を決めない。
その代わり、できるだけ多くの選択肢に触れられる環境を作る。
私はそれが、親の大きな役割の一つではないかと思っています。
フィリピンで生活していると、日本では当たり前だったことが、当たり前ではなくなります。
文化が違う。
価値観が違う。
言葉が違う。
常識が違う。
最初は戸惑います。
しかし、その経験には大きな価値があります。
なぜなら、AIには学習不可能な、不安、不満、不快などを克服する人間だけが体験できる成長という要素がそこにはあります。
*完全な最適化や整合性だけで回答を選択するAIには、構造的に、負の感情を克服する体験がプログラムできません。
「自分の価値観だけが正しいのではない」「普通は一つではない」
人間臭い体験の中から、これらを知ることができるからです。
日本の普通、フィリピンの普通。
どちらも正しく、どちらも不完全。
どちらも一つの見方に過ぎない。
それを知るだけで、人は少し自由になります。
私は子どもたちに、海外へ住んでほしいわけでも、海外で働いてほしいわけでもありません。
多言語がペラペラになってほしいわけでもありません。
もちろん、できるに越したことはないでしょう。
しかし、今後のテクノロジーは、良くも悪くもそれらを安易に解決できるようになるし、だれもが逃れられない流れです。
だから、本当に伝えたいことは別にあります。
世界は広く、人生経験には色々な形がある。
そして、それらを自分で選択できることは、本当に幸せだということです。
すべて選択肢です。
どれが正解ということではありません。
自分で考え、 自分で選び、 自分で傷つき、 自分で責任を持つ。
その力(選択肢の理解)の方が、記憶型学習の点数より大切なのではないか。
文字や画像、数式などの記憶学習では、学者ですら既にテクノロジーには勝てません。
不安や失敗を乗り越える体験、それらを生む柔軟な選択肢を体験学習することが、これからの子供たちに提供されるべき環境だと考えています。
これが、私が15年フィリピンで暮らした上で、子供たちに伝えたいこと。
【選択肢教育】です。

戻る