こんにちは、ドゥマゲッティ英語留学&移住センター(DEEC)代表の増田です。
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第二次世界大戦とドゥマゲッティの街の記録
戦争を経験しても、この街が「やさしさ」を失わなかった理由
ドゥマゲッティという街は、とても穏やかです。
日中は学生が行き交い、夕方になると家族連れが海沿いを歩き、夜には静かに一日を終える。
時間が急かされることなく、街全体が深呼吸をしているような空気があります。
この風景を見ていると、ふとこんな疑問が浮かびます。
「この街は、戦争を経験していないのだろうか?」
答えは、いいえ。
ドゥマゲッティもまた、確かに第二次世界大戦を経験しました。
今回は、その記録をたどりながら、なぜこの街が戦争を経ても、人を急かさない街であり続けているのかについてお話しします。
戦争は、突然この街にもやってきた
1941年、太平洋戦争の拡大とともに、フィリピン全土は戦火に巻き込まれました。
ドゥマゲッティはマニラやセブのような大規模戦場ではありませんでしたが、日本軍の進駐により、街の日常は確実に変わりました。
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食料や生活物資の不足
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外出制限や夜間外出禁止
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新聞やラジオなど情報の遮断
小さな街だからこそ、ひとつの変化が生活全体に直結します。
人々は不安を抱えながらも、恐怖を煽るより「互いに支え合う」選択をしました。
静かに、しかし確実に、街は耐える方向を選んだのです。

教育都市としての「壊さなかった」選択
戦時中、街の象徴である シリマン大学 も大きな影響を受けました。
授業は中断され、キャンパスの一部は軍事目的に使われました。
それでも、大学の建物の多くは破壊されず、街自体も壊滅的な被害を免れます。
これは偶然だけではありません。
街の人々にとって、教育と学びは「戦争があっても失ってはいけないもの」だったのです。
建物を守ることは、街の価値観を守ることでもありました。

市民の記憶に残る「静かな戦争」
ドゥマゲッティの戦争体験は、英雄的な武勇伝として語られることはほとんどありません。
隠れる
耐える
助け合う
そうした静かな選択の積み重ねが、街の記憶として残っています。
人々は食料を分け合い、危険な対立を避け、無理に声を上げないことを選びました。
小さな街だからこそ、一人ひとりの行動が街全体の運命に直結していたのです。
解放と復興、そして「急がなかった街」
1945年、フィリピンは解放され、戦争は終結します。
多くの都市が復興と同時に急速な近代化を進める中、ドゥマゲッティは違いました。
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大規模開発を急がない
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生活のリズムを優先する
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教育を最優先で立て直す
街は、元に戻ることを選びました。
これは後ろ向きな選択ではなく、「何を大切にするか」を理解した結果だったのです。
戦争体験が残した価値観
戦争は多くのものを奪います。
しかしドゥマゲッティは、その経験を通して、次のことを深く学びました。
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人は壊れやすい存在であること
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日常は当たり前ではないこと
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平穏は、守る意志があって初めて続くこと
この価値観は、声高に語られることなく、世代から世代へ静かに受け継がれてきました。
だからこの街では、効率やスピードよりも、人の気持ちや生活のリズムが自然と優先されます。
留学で来た家族が感じる「説明できない安心」
親子留学で訪れたご家族から、よくこんな声を聞きます。
「なぜか落ち着きます」
「理由は分からないけれど、安心します」
それは偶然ではありません。
この街が長い時間をかけて、無理をしない生き方を選び続けてきた結果です。
戦争を経験しても、街の価値観は変わらなかった。
その姿勢そのものが、今の街の空気になっています。
歴史を知ることは、未来を選ぶこと
留学先を選ぶとき、戦争の歴史まで調べる人は多くないかもしれません。
しかし、その街が何を失い、何を守ったのかを知ると、街の本当の価値観が見えてきます。
ドゥマゲッティは、極限状態の中で、人と学びと日常を守り抜きました。
だからこそ今、初めて海外に出る子どもたちにも、この街はやさしく、安心感をもって迎えてくれます。
ドゥマゲッティは、過去の痛みを抱えながらも、未来を選び続けてきた街なのです。

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