こんにちは、ドゥマゲッティ移住留学サポート(DEEC)の増田です。
今日も少し、私が感じてきたことを書きます。
一日を終えた瞬間に、気持ちだけが置いていかれる感覚について
一日が終わる。
やるべきことは終わっている。
仕事も、家のことも、子どものことも、ひと通り片づいている。
大きなトラブルがあったわけではない。
誰かと強くぶつかったわけでもない。
むしろ、無事に終わった一日だと言える。
それなのに、ふっと力が抜けた瞬間、気持ちだけが、どこかに置き去りにされたような感覚になることがある。
体はここにあるのに、心が、少し遅れてついてくるような感じ。
この感覚は、忙しさの中では、あまり気づかれません。
一日を終えた、その「境目」にだけ、静かに現れます。
「疲れた」とは、少し違う感覚
最初は、ただの疲労だと思っていました。
「今日は疲れたな」
「よく動いたからだろう」
そうやって、理由をつけていました。
でも、よく観察すると、この感覚は、単なる疲れとは少し違う。
体が重いわけではない。
眠いとも限らない。
休めば回復する、という感じでもない。
むしろ、「気持ちの置き場が分からない」そんな表現のほうが近い。
日本にいた頃は、感じる暇がなかった
日本にいた頃、この感覚がまったくなかったかと言えば、そうではありません。
ただ、感じる前に、次の行動が始まっていた。
明日の準備。
先の予定。
考えておくべきこと。
一日が終わっても、次の日のための思考が止まらない。
だから、気持ちが追いついていないことに、気づく暇がなかったのだと思います。
単身で海外に出てから感じた。
一日が終わる。
そのあとに、何も予定がない。
誰かに合わせる必要もない。
次の役割に切り替える必要もない。
その瞬間、体は止まったのに、気持ちだけが追いついていないことに気づいた。
「今日は何を感じていたんだろう」
「どんな気持ちを置き去りにしていたんだろう」
そんな問いが、初めて浮かんできました。

気持ちは、いつも後回しにされている
この感覚の正体は、とても単純でした。
気持ちは、いつも最後に回されていたのです。
・まずやること
・次に役割
・そのあと責任
気持ちは、
「時間があれば感じるもの」
「余裕ができてから向き合うもの」
そうやって、一日の中で、いちばん後ろに置かれてきた。
一日が終わったとき、気持ちが遅れてくるのは、当然だったのかもしれません。
家族を持って、さらに強く感じたこと
再婚し、父親になり、家族と暮らすようになってから、この感覚は、形を変えて続いています。
一日を回し切ったあと、家が静かになった瞬間。
ふっと、「今日はどうだったんだろう」と自分に問いが返ってくる。
子どもと笑った時間。
少し余裕がなかった瞬間。
言葉を飲み込んだ場面。
それらを振り返る余裕がなかった一日は、終わったあとに、気持ちだけが遅れて現れます。
置き去りにされた気持ちは、悪いものではない
気持ちが置き去りにされた感覚があると、人はそれを、
「よくない状態」
「整っていない証拠」
だと思いがちです。
でも、私は今、少し違う捉え方をしています。
それは、「ちゃんと感じようとしているサイン」なのではないか、と。
もし、気持ちを完全に切り離していれば、遅れてくることもない。
追いつこうとする気持ちがあるからこそ、ズレを感じる。
取り戻そうとしなくていい
この感覚に気づいたとき、
無理に気持ちを整理しようとしなくていい。
今日の評価をしなくてもいい。
反省をまとめなくてもいい。
ただ、「今日は気持ちを後回しにしていたな」そう気づくだけでいい。
それだけで、次の日の一日の質は、少し変わります。
一日の終わりは、心が追いつく時間
一日を終えた瞬間に、気持ちが遅れてくるのは、異常ではありません。
むしろ、本気で一日を生きた証拠です。
心は、いつも体より少し遅れて動く。
そのズレを、問題にしなくていい。
そんな気持ちのまま、ここに来る人もいます。

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